物語とは何か。

これはかなり大切な問いだと思う。けれど、創作論では意外とおざなりにされやすい。

多くの場合、物語の話はすぐに「起承転結」や「三幕構成」や「キャラクターの目的」へ向かう。もちろん、それらは役に立つ。物語を考えるための道具ではある。けれど、それらは物語の要件ではあっても、十分条件ではない。

起承転結があっても、つまらない物語はある。三幕構成に沿っていても、読んでいて何も起きていないように感じる作品はある。主人公に目的があっても、その目的がなぜ物語として語られる必要があるのか分からないことがある。

だから最初に考えるべきなのは、構成ではない。

そもそも、なぜそれは物語でなければならないのか。

形式だけでは物語にならない

ウィトゲンシュタインをかなり乱暴に引くなら、すべての事象に当てはまる言説は、それだけでは何も説明していない。あらゆるものに言えることは、特定のものの価値を示さない。

物語についても同じだと思う。

「物語には始まり、中間、終わりがある」と言っても、それはほとんど何も言っていない。多くの文章にも、会議にも、旅行にも、人生にも、始まりと中間と終わりはある。

「主人公が目的を持ち、障害を乗り越える」と言っても、それだけではまだ弱い。仕事のタスクにも、試験勉強にも、買い物にも、目的と障害はある。

それでも私たちは、それらすべてを物語として求めているわけではない。

つまり、物語を考えるには、もう一段深い問いが必要になる。

面白い物語と、つまらない物語は何が違うのか。

なぜ、ある出来事は単なる説明で済むのに、ある出来事は物語として語られる必要があるのか。

面白い物語は、日常を破る

私の今の答えはこうだ。

面白い物語とは、宗教儀式であり、イニシエーションであり、祭りであり、ハレの舞台である。

もちろん、ここで言っているのは、物語が宗教でなければならないという意味ではない。信仰や教義の話でもない。

そうではなく、物語には日常から人を引き剥がす力がある、ということだ。

人は日常の中で生きている。昨日と似た今日があり、今日と似た明日がある。仕事があり、学校があり、家があり、SNSがあり、いつもの自分がいる。

けれど、物語はその日常を一度破る。

日常では見ないものを見る。言えなかったことを言う。避けていたものに出会う。自分が何者なのかを試される。普段なら曖昧にして済ませられるものが、急に選択として突きつけられる。

それは祭りに似ている。

祭りの日、人はいつもの生活から少し外れる。服装も、声の大きさも、時間の流れも、身体の使い方も変わる。日常では許されない熱や混乱が、そこでは一時的に許される。

物語も同じだ。

物語は、読者や観客を日常の外へ連れ出す。そして、ただ珍しい景色を見せるのではなく、日常の中では見えなかった何かを見せる。

だから物語には価値がある。

主人公は「このままではダメな状態」から始まる

創作論ではよく、主人公に目的を持たせろと言われる。

それは間違っていない。けれど、最初に必要なのは目的ではないと思う。

物語は、主人公が「なんか分からないけど、このままではダメな状態」にいるところから始まるべきだ。

たとえばスパイダーマンのピーター・パーカーは、最初から「ヒーローになりたい」と思っているわけではない。彼はただ、好きなMJに気持ちを伝えられず、学校でもパッとせず、力もなく、自分の存在をうまく引き受けられていない。

彼には目的以前に、状態がある。

このままではダメな状態。

アイアンマンのトニー・スタークも同じだ。彼は大企業の武器産業の社長で、天才で、金持ちで、社会的には成功している。けれど、彼は傲慢で、利己的で、自分の武器が誰を傷つけているのかを本当には見ていない。

彼にもまた、目的以前に、状態がある。

このままではダメな状態。

物語とは、この状態を揺さぶる装置なのだと思う。

事件が起きる。非日常が訪れる。主人公は日常から引き剥がされる。そして、自分が今まで避けていたもの、自分の歪み、自分の欠如、自分の嘘に直面させられる。

そこで初めて、目的が意味を持つ。

目的は、物語を動かす最初の原因ではない。むしろ目的は、主人公の「このままではダメな状態」が事件によって露出した後に、具体的な形を取るものなのだと思う。

物語は情報ではなく、体験である

単に情報を伝えるだけなら、物語である必要はない。

「傲慢な人間は、自分の行為が他者を傷つけていることに気づくべきだ」と言いたいなら、別に物語はいらない。論説でいい。説教でもいい。標語でもいい。

けれど、それでは人は変わらない。

少なくとも、深くは動かない。

物語は、結論を先に渡さない。読者を迂回させる。別の人物の身体に入らせる。誤解させる。期待させる。裏切る。怖がらせる。恥ずかしくさせる。怒らせる。祈らせる。

そして最後に、読者自身の中に何かが起きる。

だから物語は、情報ではなく体験なのだと思う。

作者が言いたいことを説明するための容器ではない。読者が何かを通過するための儀式である。

面白い物語には、その通過感がある。

読む前と読んだ後で、少しだけ自分の見え方が変わる。世界の輪郭が変わる。ある言葉、ある表情、ある沈黙の意味が変わる。

それが物語の力だと思う。

フォーマットだけの物語がつまらない理由

つまらない物語は、多くの場合、出来事はある。

事件もある。目的もある。敵もいる。葛藤もある。転換点もある。ラストもある。

けれど、それでもつまらない。

なぜか。

それは、その出来事が主人公の「このままではダメな状態」を本当に揺さぶっていないからだと思う。

ただ事件が起きているだけ。
ただ障害を乗り越えているだけ。
ただ感動的な台詞を言っているだけ。
ただ成長したことになっているだけ。

そこには通過儀礼がない。

主人公が何かを失った感じがない。選択に不可逆性がない。日常に戻ったとき、もう以前の自分ではいられないという感覚がない。

だから、構成は整っていても、物語としては弱くなる。

面白い物語は、主人公を変える。あるいは、変われなかった主人公を破滅させる。

どちらにせよ、日常を一度破った以上、何も変わらずに戻ることはできない。

このサイトで考えたいこと

このサイトでは、物語を単なる型として扱いたくない。

起承転結や三幕構成を否定するわけではない。むしろ、それらは必要だと思う。けれど、それだけでは足りない。

物語とは何か。
面白い物語とは何か。
主人公はなぜ変わらなければならないのか。
読者はなぜ物語を求めるのか。
AIはなぜそれっぽい物語を書けても、どこか浅くなるのか。
物語の構造をAIに教えたら、どこまで書けるのか。

そういうことを考えていきたい。

私にとって物語とは、日常を破るための形式である。

そして、面白い物語とは、読者を日常の外へ連れ出し、何かを通過させ、戻ってきたときに少しだけ世界の見え方を変えてしまうものだ。

だから物語は、宗教儀式であり、イニシエーションであり、祭りであり、ハレの舞台である。

そこまで行って初めて、わざわざ物語という形で語る価値が生まれるのだと思う。